茶道で学ぶ禅


[8] 無(む) --- 掲載2019.1.9
出典: 茶席の禅語

僕の解釈
一字の禅語 大変難しい言葉です。
種々の書物等に解説が沢山掲載されています。

要は、「満ち足りてはいけない」ということでしょうか。
いや、豊満になってはいけない。
はたまた、豊満を求めてはいけない。
ということのように思えます。
もっと解釈・考えを深めると、常に自分の無知のものに対して心を開いて、
自分の知恵を深めなさいということでしょう。

私は最近こんな言葉を、自分で考え付いたその言葉を、よく使うようになりました。
その言葉とは、「人間は中途半端な動物である」という言葉です。

キリスト教の教えでは、「神は人間を造り、今は人間が完成に向かっている途中だから、
人間は苦しんでいる。そういう苦しみの試練を神が人間に与えている。」
ということのようです。

私の考えでは、神が人間にそうしたのではなく、大自然が人間を中途半端な動物として
造り出したと思えるのです。
むしろ、犬・猫・ライオン・象・蟻 ほどの、人間よりもずっと無知な動物の方が賢いのでは
ないかと思えます。
数学や物理学ができるという意味での賢いというのではなく、地球上ですべての動植物・
鉱物がお互いに共生して行く知恵を自然に授かっているという意味での賢さです。
この自然が「無」の境地だと思えてなりません。

人間、世界中でいがみ合わないで、物欲等の欲望を捨てて生きていく地球でありたいです。
中途半端な動物である人間にはそのような生き方は無理でしょうが、少しだけでも
そのような動物に近寄りたいと念願しています。
紀元前のもっと前の前から人間のいがみ合い・戦争が続いているのですから、
まだまだ何億年か先になっても、この不幸な人間の苦しみは無くならないでしょう。
せめて、僕の解釈する禅の精神「無」の実践が救いとなることの望みとなります。
中途半端な人間、欲望を捨てるなんてできないでしょうが。

中途半端な動物(人間)が欲望を捨てて「無」になった時(そんな時は来ないように思えますが)、
人類は幸せに暮らせるようになるでしょう。


[7] 百花為誰開(ひゃっかたがためにひらく) --- 掲載1998.12.12
出典: 碧巌録

僕の解釈
”百花 ”は ”すべての花 ”という意だと思います。
そのすべての花は誰の為に咲くのだろうか。
いやいや、特に誰かの為に咲いているのではない。
すべての花は自然にそこに咲いているだけなのだ。
そしてその花は自然に誰かの心を楽しませたり癒したりすることになっているのだ。

そんなの当たり前だと誰しも思うことでしょう。

しかし、ここで ”花 ”を ”人 ”に置き換えてみたらどうでしょう。
すべての人は自然に生かされていて、どこかで誰かの為になっているのだ。
特に誰かのために生きているというのではないのだ。
人も、花と同様、この地球上の、いやこの大宇宙の、大自然の営みの中で生きているのだ。
あまり誰かのため、何かのためにと気張らないで、大自然の営みに沿って生きようではないでしょうか。
私達は一人一人みんなかけがえのない人で、誰一人捨てられるような人はいないのだ。

惨めな思いをさせられた時にはこの言葉を思い出しましょう。


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[6] 別無工夫 (べつにくふうなし) --- 掲載1998.9.19
夢中問答

僕の解釈
読んで字の如く別に工夫ないこと。
人は、何か目的とすることを達成しよとすると、つい、その事を達成するためにいい工夫はないものだろうかと考えてしまい勝ちになる。そうするとかえってぎこちなくなって、先が見えなくなる。目的に向かって今やっていることを一生懸命やればいいのだ。もっといい方法はないかと考えることはいいのだが、それに捕らわれることはいけないということなのでしょう。高校野球でも、勝ちが見えてきて、そのまま一生懸命やっていればいいのに、ついいらぬ工夫を考えてそれまでのプレイが出来なくなり、逆転負けすることがよくある。禅の修業の時にかぎらず、人生にもこの言葉がよく当てはまると思います。 お茶のお点前のときも、上手に点てようと思わず、一生懸命点てるのがいいお点前になっているように思います。


[5] 且座喫茶 (しゃざきっさ)
臨済録

僕の解釈
”且座”はしばらく座る、”喫茶”はお茶を飲むの意。
「しばらくの間ゆっくり座ってお茶でも飲みましょうよ。」ということだと思います。
「そんなことできるものか、この忙しい時期に!」と思う人にこそ、この言葉がたいせつのように思います。
最近は、テレビで、会社等で忙しく働いている場面として、室内いっぱいに何人もがそれぞれのパソコンに向かってにらめっこしている姿が、職場の象徴のように映し出されます。
人類、どこかが間違っているように感じます。
「まあそんなにあくせく働かなくてもいいじゃないですか。しばらく手を休めて、お茶でも飲みましょうよ。」
「何を言ってるんだ。お茶なんか飲んでる暇があるのなら、もっと仕事をしなさい。会社のためだし、それに社内での俺の将来の地位がかかってってるんだ。」
やっぱり、どこかが間違っている。
「勉強が好きだ」と言う子供は希。
勉強をせざるを得なくさせている世が、今の子供の世界をつくっている。
その子供が大人になる。
その時に、「しばらくの間お茶でも飲みましょうよ」の世の中になっているのか、もっと忙しい世の中になっているのか。
悪循環のないように願っています。


[4] 照顧却下 (しょうこきゃっか)
徹心録

僕の解釈
”却下”は足元、”照顧”は明るく照らして顧みるの意。
「自分の歩んで来た道を顧みて、また今の自分の立地している状況を良く判断して、自分が間違ったことをしていないかどうかをよく考えてみなさい。」ということだと思います。間違ったこととは、逆に良いこととは、禅(仏教)でいえば己が無になること、エゴのない自分であること、慈悲を最高とする自分であること、であると思います。
まずは自分が慈悲深い人間になるよう努力し、そうしつつ他人に対して慈悲を感じることが大切なのだと思います。
我こそは我こそはと、自分を前に出す西欧やアメリカに多い世間を戒めるような言葉ではないでしょうか。禅(仏教)を知る最も大切な言葉であると思います。

[3] 和光同塵 (わこうどうじん、ひかりをやわらげちりにどうず)
老子の語

僕の解釈
”和光”とは自分が光り輝くのを和らげる、即ち自分が目立とうとしないという意
”塵”とは”大衆”のこと。従って”同塵”とは大衆と同じであること。
従って ”和光同塵”とは自分がすばらしいんだと自分ばかり目だ出せようとするのは良 くなくて、自分は平凡な大衆であることを認識することが大切であるということ。
我こそは我こそはと自分を目立たせようとするのは人間社会をぎすぎすにする。
ないものまでもあるように見せたがるアメリカ人のような自己主張型は人類にとってけし て良いものではない。東洋人の謙虚な態度こそ世界平和のために貢献するのだ。
と思えてなりませんが、どうでしょうか

[2] 山是山水是水 (やまはこれやまみずはこれみず)
出典: 大慧武庫
大徳寺 江月宗玩(こうげつそうがん)の語


僕の解釈
自分が努力して変わったと思ってもほとんど何も変わっていないじゃないか。山はやっぱり山だし水はやはり水のままのように。自分が変わったと思っても、それは目先のことだけで、本質的には何も変わっていないのだ。だから俗世間の中で色々なことに捕らわれて心を悩ますことはとってもつまらないことなのだ。大自然の中で、自然に逆らわないで生きよう。人間の俗世間に捕らわれないで生きよう。
もしも、山や水が変わったとしたら、それは人間の仕業であって、大自然に背く人間の自殺行為なのだ。このことが分からなければ、この地球から人類は早々と滅びて行くであろう。


[1] 日々是好日(ひびこれこうじつ、にちにちこれこうにち)
出典: 碧巌録
雲門禅師の語

僕の解釈
毎日が良き日である。辛い日も嬉しい日も、今日はこれが良いことなのだと素直に受け止めて、毎日を大自然の成り行きにゆだねて生き、強い欲望を持たないこと。
努力も欲望が強すぎてはいけない。